「父母のこと」と言いつつ「母」に終始してしまった。
母の事を語るのは楽なのだが、父の事を語るのは難しい。
何故なら幼少期から青春時代にかけて、私は父とほとんど会話をする事が無かったから。
私の父は勤務時間以外は、全て家にいた。
友人がいる訳でもなく、仕事で職場に行く時以外は全て家にいた。
そして家では、一言も喋る事は無かった。
厳格で寡黙で勤勉で、そして暴力的だった。
夜は必ず酒を飲んだ。
そして吽形像の様な顔をしたまま一言も発せず、ただ本を読みながら酒を飲んでいた。
時折、家庭でも気に食わない事があると暴れる人だった。
私が物心付く頃には無くなっていたが、
酷い時は日本刀を振り回し畳等を切り捨てていたそうだ。
コレはネタとしてはオモロイらしく、今でもうちの親父はポン刀振り回すとネタ話にしている。
私は高校行くまで、父親という人間は家で日本刀を振り回すモノだと思ってた。まじで。
直接的な暴力は少なくなったとはいえ、家庭内は父の恐怖が全てを支配していた。
幼い頃の記憶は、毎晩声を上げずに泣きながら寝た事だ。
泣けば父は余計に暴れるから。
父に殺される夢を見て、夜中目が覚める。
そして、また泣きながら寝る。
自分にとって夜は苦痛以外何物でもなかった。
いつも「チッ」と舌を鳴らし、それが唯一の父の感情表現だった。
今でも人が舌を鳴らすと、私は背筋が凍る。
本当に喋らない。
一年に片手で数えられるくらいだ。
全て母が代弁していた。
「おとうさん、なんで怒ってるの?」
「ちゃんとゴハン食べないからよ。」
母も良い様に使っていたのかもしれない。
あるきっかけを過ぎるまでは、私にとって父は畏れと怨みの対象でしかなかった。
そして、父と同じように自分を憎んでしまっていた。
自分もこの人と同じような人生を歩んでしまうのではないか、という恐怖と共に。
恐怖と共に生きると言う事は、
他人を拒絶すると言う事だ。表層的に。
父みたいに成るまいと、幾ら社交的に振舞ったとしても、
強迫観念から興された行動はいつも不自然で、
結果を求める自虐的言動は、より私を孤独にした。
物好きな聖者が、傍に居てくれたとしても。だ。
(自分が気が付かなければ何を語られて何を癒されても、結局同じ事に帰結してしまう。
ただ単純に俺が莫迦なだけだけど。)
私が25歳の時にきっかけが訪れた。
父が失明したのだ。
当時、私は実家から勘当状態だったので事の詳細は知らない。
見舞いには一度行った。
半年ぐらいたって父が退院し、私もちょくちょく実家に顔を出すようになった。
本を読む事だけが人生の楽しみだった父は、
ただちゃぶ台の前に座り、じっとしていた。
ありふれた言葉なのだが、その背中が非常に小さく見え、
私は少し寂しい気持ちになった。
今までは恨みと恐怖の対象でしかなかった父。
父は幸せなのだろうか。
父は幸せだったのだろうか。
人と接する事を極端に嫌った父は、
趣味といえる物を持たず、この世の中と自分の周りの人々に嫌悪し、
ひたすら自分の世界に生きていた。
彼は自分を愛し、そして嫌っていたのだと想う。
拒絶する事でしか自己を確立する事が出来なかったのだろう。
彼は俺で、俺は彼だった。
彼は父であると共に、独りの人間だった。
私は、極単純な、極当たり前の事に気付くのが遅すぎた。
人間だからこそ、他人に恐怖し、子供に恐怖し、家族に恐怖し。
父を人間としてみる事が出来て始めて、
あ、俺も人間じゃんって。
馬鹿な話。
だから、ヒトには話した事が無い。
色々な意味で楽になったし。
様々な野望を諦めて、凡人である事を実感した。
父の事を語るのは難しい。
自分の奥底に眠る元素を掘り起すのと同義だから。
追記;
今現在、父は母の献身的な看護と手術によって、片方の目が天眼鏡を使用すれば新聞の字を読めるくらいまで回復した。
彼は毎日、本を読み、目を休める為に横になり、気まま
(介護する母の言う事は一切聞き入れないので、母は恨み言ばかり言っている)
な生活を送っている。
しかし、あいかわらず人は(親戚を含め)拒絶しているようだ。
追記;2007-08-16
エントリ書きながらオープンにするかどうか迷った。
つまらなすぎて、チラシの裏過ぎるから。
酒飲ながら仕事してて、勢いで載せる。
酒の力に頼るのは情けないね。